同じ事柄でも感じ方は人の数だけ…【理事 井上 美絵】
今年大切な人やお世話になった人とのお別れが立て続けに3回あった。
親子共々近しい関係だった為、悲しみはとてつもなく大きなものだった。
同じく親しくしていた周りの人たちが
「仕事が出来ない」
「涙が止まらなくて何も手につかない」
「子どもに冷静に伝えられない」
「苦しくてどうしようもない」
「子どもも泣きじゃくっている」
と口々に言う。
私は…
とてつもなく悲しいし、寂しい。
でも、仕事も普通に出来た。むしろ気が紛れた。
子どもに冷静に伝えられた。そして生と死について話す機会となった。
泣きじゃくるほど涙は出なかった。
小さい頃から感情をコロコロ表に出せる方じゃなかった。
親戚のおばちゃんに
「あんたは何を考えてるかわからない。子どもらしくなくて気味が悪い」と言われたのを思い出した。
だけど、子どもなりによく見ていたし、色々感じていたし、沢山考えていた。
表に出ていなくても。
目に見えることや聞こえることはわかりやすいし、素直な感覚に見えがちだけれど、見えないから無いものではなく、感じ方や表現の仕方が違うだけ。
同じ事柄でも、そこに関わる人の感じ方は人の数だけある。(傾聴では準拠枠と言います)
悲しい時は泣くもの。
嬉しい時は笑顔で喜ぶもの。
楽しい時は全身で表現するもの。etc…
こうあるべき!こうあらねば!
みんなそうだから!常識だから!
そんな感覚がどこか当たり前にありませんか?
感覚や感情こそ湧いて出てくるもの。
何が正しい、間違いなんてない。
出てきた感覚がそのままの自分。
周りと違くても、私は大切な人の「死」が悲しくて辛くて大きなものだった。
人から見える部分はほんの一部で。。。
見えない部分に沢山のことが存在する。
そんな風に思った出来事だった。
自分の感情に善悪をつけていませんか?
出てきた感情に罪悪感を持つことはありませんか?
人と違う感覚に違和感を感じていませんか?
感情は勝手に出てくるもの。
「そんな風に思うよね」「今そう感じるよね」と、どんな感情も○!と受け止めてあげてみて下さいね。
井上 美絵